戸叶和男『日本奇習紀行』

日本の歴史に残る紀行文『奥の細道』を著した俳人・松尾芭蕉は、名作『野ざらし紀行』の中で、旅の道中で稚児と出くわした際の逸話として、「富士川のほとりを行に、三つ計なる捨子の哀げに泣有。この川の早瀬にかけて、うき世の波をしのぐにたえず、露計の命を待まと捨置けむ。小萩がもとの秋の風、こよひやちるらん、あすやしほれんと、袂より喰物なげてとをるに、猿を聞人捨子に秋の風いかに いかにぞや、汝、ちゝに憎まれたる歟(か)、母にうとまれたるか。ちゝハ汝を悪(にくむ)にあらじ、母は汝をうとむにあらじ。唯これ天にして、汝が性のつたなきをなけ」と、ある意味、無慈悲とも思える言葉を投げかけてその場を後にする場面を描いている。しかし、芭蕉に限らず、彼のようにクールで達観したスタンスであるかどうかは別にして、無念にも人は苦境にある他者を救えないケースというものが、得てして存在するものである。

「私はね、私は。……いや、ご批判をね、承知で申し上げるのもあれなんですが、ホント、あの時は何もできなかったんです。いや、もしかするとですね、何かできたかもわからんのですけれどもね、私みたいな若造、ああいう苦界に落ちたあの子らのね、人生を変えることなんて、できやしなかった。いや、もしかすると私自身、そう思いたいだけなのかもわからんですけどもね……」

自身がかつて目の当たりにした不幸な身の上の少女たちについて、どこか懺悔めいた口調でその重い口を開くこととなったのは、現在、近畿地方のとある地域で暮らす山本庄吉さん(仮名・87)。山本さんの話によると、今を遡ること約70年前の1947年頃、彼は戦火からの復興の兆しが少しずつ見え始めた大阪のとある港町で、「我が物顔に振舞っていた」(山口さん)という“瑠璃の瞳の男たち”に、あまりに無残な形で囚われていた年端もいかぬ少女たちの姿と泣き叫ぶ声が、今なお忘れられずに瞼の奥、鼓膜の中に焼きついているという。

「当時ね、私は3つばかし年長の兄貴の紹介でね、(港湾労働者として)荷揚げ・荷降ろしの仕事をしていたんですけれどもね、その時にね、米国の本土に行くという船の貨物にですね、1つだけ、おかしな荷があって。自分が先輩格の男に聞いた話じゃ、“日本の珍しい動物”たちを、本国に持ち帰って、向こうで偉い学者さんたちが実験するんだなんていう話だったんだけれども、いざ出航という日のですね、前の晩に、私が荷物の漏れを確認するために歩いていたら、どこからともなく女のすすり泣く声が聞こえてくるわけ。それで、最初はお化けでも出たんじゃないか? って思ってね、1つずつ荷を見てまわったらです。その“動物”って言われてた荷からね、どうもその声が聞こえてくる。それでいよいよ、私もこりゃあおかしいと思って、雑に張り合わせた板の隙間から、こっそりと中を覗いてみたら、その中にそれこそ20人くらいでしょうかね、下は10にもならんような子から、上は14、5ぐらいかな。そのぐらいの女の子たちが素っ裸でいる……さすがに腰を抜かしましたよ」

“人間”として客室に乗せられるならばまだしも、あろうことか“実験動物”たちとして、木の板で包み隠された檻の中へと押し込まれていたという日本人の少女たち。彼女たちは、板の隙間から見たその光景に、驚きのあまり声をあげてしまった山本さんに気づき、懸命になって泣き叫びながら助けを求めてきたという。

続く

以下ソース
http://tocana.jp/2018/04/post_16443_entry.html

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