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男女雇用機会均等法の母、赤松良子さん(撮影/小山内麗香)

「本当に長かった」
「この日をどれほど待っていたことか」

5月下旬、参議院会館で満面の笑みをたたえながら祝杯をあげる女性たちの姿があった。
女性の社会参画を目指す市民団体「クオータ制を推進する会」、通称“Qの会”のメンバーだ。クオータ制(QUOTA制)とは、政治における男女格差を是正するために、議員や閣僚などの一定数を女性に割り当てる制度のことを指す。

5月16日、参院本会議で「政治分野における男女共同参画推進法案」が成立した。この法案の内容は、国や地方の選挙で男女の候補者数をできる限り均等にすることを求めるもので、「候補者男女均等法」とも呼ばれている。
現在の衆議院は男性議員418人に対して女性議員がわずか47人。各国の議会が参加する列国議会同盟の2017年ランキングによれば、日本の衆議院は、女性議員の割合が193か国中165位だ。

2012年に発足したQの会は、男性議員が圧倒的に多数を占める現状を変えるべく、足かけ6年にわたって候補者男女均等法の成立に尽力した。
さまざまな年代がそろう女性たちの中心にいたのが、同会の代表を務める赤松良子さん(88才)だ。赤松さんは33年前、旧労働省婦人少年局長として職場における男女平等を規定する「男女雇用機会均等法」を成立させた。
そして今年、Qの会代表として政界における男女平等への道を切り開いた彼女は、2つの「均等法」を生んだ存在で、まさに「男女平等の母」だ。

労働省(現厚生労働省)に入省し、政治の世界で働き始めた1953年から半世紀以上にわたり、女性の地位向上のために歩み続けた赤松さんの半生は、日本社会における性差別との闘いそのものだった。

赤松さんが生まれたのは1929年、世界大恐慌が発生した年だった。西洋画家の父と、それを支える母の末娘としてふたりの愛を一身に受け、大阪で生まれ育った。

「小さな頃から女性が男性より下に見られるのはおかしいと思っていました。昔からフェミニストだったんです」

穏やかな、でもはっきりした口調で語る赤松さんは、鮮やかな花柄のスーツに鮮やかな赤の口紅が映える。幾多の山谷を乗り越え米寿を迎えた自信が、凜とした雰囲気を生む。

赤松さんが生まれた戦前の日本は、文字通り、男尊女卑がまかり通る国だった。

「子供の頃は明治民法の時代で、女には何の権利もない。兄からは『お前がいくら偉そうなことを言っても、この家のものは竈の下の灰までおれのものだ』と言われ、悔しい気持ちになったものです。末娘の私はもちろん、母親にも家の財産はびた一文渡らない制度で、当時から『こんなひどい法律はどうかしている、変えることはできないのだろうか』と思っていました」(赤松さん)

怒れる少女の転機は、終戦だった。GHQの改革により日本の家父長制度は終焉を迎えた。翌年には女性参政権が認められて、初めての選挙が行われた。ものすごいスピードで移り変わる世の中に赤松さんは大きな衝撃を受ける。15才のときだった。

「憲法をはじめさまざまな法律ができて、財産も均分相続になり、選挙権も得られた。自由と平等を体現するような戦後の民主主義はキラキラと輝いていて、『自分さえ努力すれば女性の立場をもっと変えられるかもしれない』という希望を感じました」(赤松さん)

民主主義に後押しされた赤松さんは1947年に上京し、津田塾専門学校(現津田塾大学)で英語を学んだ後、東京大学法学部に入学した。当時、800人の学部生のうち女性はわずか4人だった。

続く

以下ソース
https://www.news-postseven.com/archives/20180611_693856.html

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