【国防】これが日本の危機管理への教訓だ 3.11『トモダチ作戦』の現場 何が素早い救援を可能にしたのか[03/12]
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0001逢いみての… ★2021/03/12(金) 23:39:22.23ID:CAP_USER
10年前のこの日、私は勤務していた沖縄県瑞慶覧にあるキャンプ・フォスター内の在日アメリカ海兵隊外交政策部のオフィスにいた。知人の送別会に出席するため那覇に向けて基地を出ようとしたそのとき、東日本大震災の第一報が届いた。

テレビに映し出される被災地の有様に、オフィスにいた誰もが衝撃を受け、そして、おそらくほとんどの日本人が自国の被災する姿をリアルタイムで見て感じたと同じように、打ちひしがれた気持ちになった。

そして、翌12日は朝5時前には起床してオフィスに行った。しばらくして司令部から東北に政治顧問として赴くよう言われた。ティンバーレイク准将を長とする13人の海兵隊先遣隊のメンバーに選ばれたのだ。

私には、これは自分にしか出来ない役割だと感じた。1996年1月、日米関係論の研究で神戸大学大学院に在学中の私は、現地で阪神淡路大震災を経験している。海兵隊の中では、日本で起きる大災害がどういうものか、被災地に何が必要なのか、実体験で知っている数少ない存在だった。

また、大阪大学大学院国際公共政策研究科准教授だった2006年には、海兵隊の研究生との共同研究で「日本における大規模災害救援活動における在日米軍の役割についての提言」を発表もしていた。

それだけではない。研究者時代も09年に海兵隊に移ってからも、沖縄の基地問題に取り組んだことで、日本の政治家や官僚、自衛隊など各所に人脈をもっていた。大災害直後の混乱した状況の中で、しかも同盟国の支援とはいえ外国の軍隊が行動するには、膨大な調整作業が必要になることが予想できた。

私たちは13日早朝に普天間基地を飛び立ち、横田基地に到着。ここに設けられた統合本部で関係者の会議が行われたが、その休憩の際、准将にこう語った。「大混乱が起きるから怒らないでくれ。日本は主権国家なのだから、こちらの意思だけを通すわけにはいかない。ひたすら調整が必要。ほしいものがあったらいってほしい。ただ、どうやって手に入れたかだけは聞かないでほしい」と。

縦割りとか官僚的といった問題は何も日本側だけのものではなかった。私たち現地に入る部隊の上に、横田に上級司令部として在日米軍司令部が存在するわけだが、通常チャンネルだけで物事を動かそうとすると必ず介入してくることは目に見えていた。私は、そこは個人的なパイプを使ってなんとかするつもりだった。

そのパイプを活用する場面は、いきなりやってきた。

12日に先遣部隊での活動を任命された段階から、被災地に膨大な人員と物資を送り込むために何が必要かを考えた。陸海空の交通インフラは、すべて被災。ホバークラフトに適した海岸線も、ヘリポートに適した空地も、多くが瓦礫で埋め尽くされ使い物にならなかった。そこでまず仙台空港に絞って、急ぎ復旧し、そこから送り込む計画を立てた。

仙台空港は、宮城県、国土交通省、民間の空港管理会社の3者の管轄で、当然、復旧にも利用にも調整が必要だった。それで、首相官邸に持っていた個人的なパイプを使うことになった。13日には、当時、菅直人政権で防災担当内閣府副大臣だった東祥三氏に、共通の友人である米津等史元衆議議員を通じ、連絡を取り、調整を依頼した。

私たち海兵隊先遣隊は、14日午後に陸上自衛隊仙台駐屯地に設けられた前方司令部に入った。仙台空港の関係者と協議に入ったのは15日の朝だった。

仙台空港は、海岸近くに位置していたことから、津波の直撃を受け、滑走路はじめ敷地内は瓦礫に覆い尽くされ、空港ビルも内部は破損、約800台の自動車が滑走路やその周辺で破壊されたまま放置され、被災者のご遺体の収容も終わっていなかった。

何より空港事務所の責任者と会ったときのことが忘れられない。このとき私は日本に来て21年経っていたが、これまでに彼ほど絶望し打ちひしがれた日本人の顔を見たことがなかった。それでも、空港の復旧から、本格的な救援活動の開始という意図を伝えてその日は基地に戻った。

続く

以下ソース
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/81050

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0002逢いみての… ★2021/03/12(金) 23:39:44.61ID:CAP_USER
翌日、私は信じられない光景を見た。仙台空港関係者は、打ち合わせの直後から、独力で地元の業者を動員し数十台の建設車両を集めていた。そしてこの16日には滑走路の半分の面積の瓦礫を除去し、使えるまであともう少しのところまで来た。

途中で合流した米空軍特殊部隊が携帯型の無線機を持ち込んで、すぐさま管制機能を回復し、軍用機が18日に着陸できた。その後、海兵隊のキャンプ富士から支援の人員、物資が次々と運び込まれた。そして約1ヵ月後の4月13日、民間のチャーター機の運航が再開されるまでになった。

仙台空港の復旧は、救援活動そのものを円滑にするためと同時に東北の被災地の皆さんに希望を与えるための計画だった。

仙台空港を使っての輸送が始まって、ようやく私たちの復旧・支援活動は軌道に乗り始めたと感じられるようになった。震災発生から約1週間後のことだった。

そこまで混乱の中であったが、何より被災した日本人が、絶望の中でも大混乱に陥ることなく、辛抱強く秩序を保ち続けていたことが救いであった。そのことは救援側に貴重な時間を与えてくれた。

運の良いこともあった。このとき自衛隊の統合任務部隊の指揮官となった、東北方面隊総監の君塚栄治陸将は、かつて那覇駐屯の第1混成団(現・第15旅団)の司令官を務めた人物だった。仙台に入った海兵隊幹部も、君塚陸将やそのスタッフの何人かと当時から交流があった。私自身も夫婦とも君塚氏ご夫妻と交流があり、また恩師の五百旗頭真先生が防衛大学校校長を務めた時、君塚氏は幹事を務めていたという関係でもあった。スムーズな意思疎通を図るのに役立ったことは言うまでもない。

このような事前の関係性の構築が、大災害や有事などの対応では大きくものをいう。私は、日本政府、地方自治体、自衛隊、警察、消防、医療機関、そして在日米軍が、事前に災害時の連携を計画し、怠りなく準備できていれば、東日本大震災で復旧・支援活動が軌道に乗り始めるまでにかかったリードタイムの1週間は、3日間にまで短縮できると考えている。災害の救援では、この時間が何よりも重要な要素なのである。

そして、在日米軍を、とくに海兵隊をその災害対応の主要メンバーと考えることを提言したい。

自衛隊を始めとする日本の関係機関は、能力が高く、意識も高いと思っている。しかし、いかんせん日本は極端な少子化に見舞われており、自衛隊も多くの部隊で定員割れが見られる。

また、地方ほど人口減少が深刻であり、今後、東日本大震災のように地方が被災した場合、復旧のためのマンパワーの確保は重大な問題になるはずだ。このことは、2019年5月5日公開の「人口減少が自衛隊に及ぼす影響に、日本人は気づいていますか?」でも論じているので参考いただきたいが、その際、海岸線の長い日本で、海沿いに広がる被災地を救援するのに、海と空からのアプローチに長け、また海外での災害救援の経験が豊富な海兵隊を活用しない手はないと思う。

東日本大震災の教訓である事前準備の重要性に鑑み、今想定されている南海地震、東南海地震については、具体的に担当地域まで決め、日常から関係者同士の連携を図るべきだと思う。

私は東日本大震災のあと、この地域の5県と公式に在日米軍と災害救援について関係を構築し、人的交流、訓練などを初めていた。このほかにも更に5県と非公式に関係を構築していた。

この事業は、2015年、私が沖縄・辺野古の基地反対運動とのトラブルで、不本意ながら海兵隊を去らざるを得なかったことで途絶えてしまった。

残念なことだが、教訓を如何に風化させないかが、10年目に残った課題であると思う。

順番が前後したが、最期に海兵隊が実際にどのように現地に入って活動したかを紹介したい。

震災が発生したとき、駐沖縄の第31海兵遠征部隊の実働部隊は、実は日本国外にいた。東南アジア地域で災害救援訓練を行うためであった。

ASEAN地域フォーラム災害救援実働演習に参加するため、部隊を乗せてインドネシアに向かっていた揚陸艦「ハーパーズ・フェリー」は、目的地到着まであと数時間という時に東日本大震災発生の知らせを受けた。そして、しばらくして指令が届き、艦は大きく舵を切った。乗っていた私の知人によると、テーブル上のものがすべて振り落とされるほどの急旋回で、被災地へ向かうと感じた瞬間、艦内は大きな拍手に包まれたという。

続く
0003逢いみての… ★2021/03/12(金) 23:39:53.94ID:CAP_USER
また第31海兵遠征部隊司令官は、強襲揚陸艦「エセックス」でマレーシアのコタキナハルに寄港していた。突然、第7艦隊司令官から電話が入り、震災の発生と救援活動の可能性を伝えられた。すぐさま上陸していた隊員を呼び戻し、翌日出港した。

エセックスは、八戸に入港したあと、そこで2週間ほど待機。関係者は艦内で「イライラ」して待っていたという。そして、宮城県の気仙沼大島への派遣が決まった。

気仙沼大島はまさに海兵隊が活躍するにふさわしい被災地だった。気仙沼市の沖合にある人口3200人ほどの島で、本土とは連絡船しか交通手段はなかった。しかし、津波ですべて使用不能になっただけでなく、津波で港や海岸がすべて瓦礫で埋まる羽目に。その上、近くにあった石油備蓄基地で火災が発生し、気仙沼大島にも被害が及んだ。

住民は学校に避難したが、電気も水道も供給が止まってしまった。食糧もまた限られた分量しかなかった。気仙沼大島の住民は、被災地域の中でもさらに取り残された存在だった。

救援活動が始まったのは27日だった。まず始めに、東北電力の電気工事用車両、電源車、給水者、タンクローリーと作業員を揚陸艇で輸送した。翌日には電気は復旧することが出来た。

そこまでの間、島民は大混乱にも陥らず、実によく耐えていた。上陸した海兵隊員は島内の交通を復旧するため、島民の住宅を壊さなければならない状況にも直面した。そこまで耐えていた島民の気持ちを思い、涙を流した隊員もいた。そして、そのような隊員たちを島民は自らの食糧が底をつきかけていたにもかかわらず、おにぎりの炊き出しで出迎えた。そこにはお互いへの思いやりと感謝があった。救援・復旧活動は1週間あまりだったが、島民と海兵隊員の間には、本物の「絆」が結ばれたと思っている。

3月15日、在沖海兵隊基地の司令官が仙台に視察のために来た時、私は、海兵隊が救援したところを、物理的な復旧・復興のみならず、精神的な再建ができるまで、支援し続けるべきと訴えた。その理由は、阪神淡路大震災後、実際に目にした復興過程の教訓だ。このときは、物理的な再建は割合早かったが、孤独死などのメンタルな面で、まだ課題が多かった。東日本大震災後、日本政府や地方自治体が忘れた「心のケア」をちゃんとやるべきと司令官に説明した。

司令官はすぐ理解してくれた。私が後に、子供たちを沖縄の海兵隊基地に招くホームステイ・プログラムを提案したときは支持してくれた。これは8月に実現した。

そしてその半年後、今度は沖縄に戻っていた海兵隊のメンバーが、気仙沼大島を再訪し、旧交を温め合った。その後、港まつりへの音楽隊の参加、慰霊祭の参列、メモリアルコンサートなどの交流があった。

その絆を象徴するために、今年3月7日に、感謝の記念碑が設置され、私と、大島救援を含めたトモダチ作戦に参加した2人の将校と一緒にその除幕式に参加した。

10年経ったが、気仙沼大島と海兵隊の交流が今後とも続いてほしいと思う。
0005夜更かしなピンクさん2021/03/13(土) 01:35:42.83ID:iyXIumWl
あとから費用請求するなら、ただの押し売り
最初から費用について提示しろ
0006夜更かしなピンクさん2021/03/13(土) 10:03:07.37ID:ukedmBPF
オペレーションコドモタチ(爆笑)
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