10年前のこの日、私は勤務していた沖縄県瑞慶覧にあるキャンプ・フォスター内の在日アメリカ海兵隊外交政策部のオフィスにいた。知人の送別会に出席するため那覇に向けて基地を出ようとしたそのとき、東日本大震災の第一報が届いた。

テレビに映し出される被災地の有様に、オフィスにいた誰もが衝撃を受け、そして、おそらくほとんどの日本人が自国の被災する姿をリアルタイムで見て感じたと同じように、打ちひしがれた気持ちになった。

そして、翌12日は朝5時前には起床してオフィスに行った。しばらくして司令部から東北に政治顧問として赴くよう言われた。ティンバーレイク准将を長とする13人の海兵隊先遣隊のメンバーに選ばれたのだ。

私には、これは自分にしか出来ない役割だと感じた。1996年1月、日米関係論の研究で神戸大学大学院に在学中の私は、現地で阪神淡路大震災を経験している。海兵隊の中では、日本で起きる大災害がどういうものか、被災地に何が必要なのか、実体験で知っている数少ない存在だった。

また、大阪大学大学院国際公共政策研究科准教授だった2006年には、海兵隊の研究生との共同研究で「日本における大規模災害救援活動における在日米軍の役割についての提言」を発表もしていた。

それだけではない。研究者時代も09年に海兵隊に移ってからも、沖縄の基地問題に取り組んだことで、日本の政治家や官僚、自衛隊など各所に人脈をもっていた。大災害直後の混乱した状況の中で、しかも同盟国の支援とはいえ外国の軍隊が行動するには、膨大な調整作業が必要になることが予想できた。

私たちは13日早朝に普天間基地を飛び立ち、横田基地に到着。ここに設けられた統合本部で関係者の会議が行われたが、その休憩の際、准将にこう語った。「大混乱が起きるから怒らないでくれ。日本は主権国家なのだから、こちらの意思だけを通すわけにはいかない。ひたすら調整が必要。ほしいものがあったらいってほしい。ただ、どうやって手に入れたかだけは聞かないでほしい」と。

縦割りとか官僚的といった問題は何も日本側だけのものではなかった。私たち現地に入る部隊の上に、横田に上級司令部として在日米軍司令部が存在するわけだが、通常チャンネルだけで物事を動かそうとすると必ず介入してくることは目に見えていた。私は、そこは個人的なパイプを使ってなんとかするつもりだった。

そのパイプを活用する場面は、いきなりやってきた。

12日に先遣部隊での活動を任命された段階から、被災地に膨大な人員と物資を送り込むために何が必要かを考えた。陸海空の交通インフラは、すべて被災。ホバークラフトに適した海岸線も、ヘリポートに適した空地も、多くが瓦礫で埋め尽くされ使い物にならなかった。そこでまず仙台空港に絞って、急ぎ復旧し、そこから送り込む計画を立てた。

仙台空港は、宮城県、国土交通省、民間の空港管理会社の3者の管轄で、当然、復旧にも利用にも調整が必要だった。それで、首相官邸に持っていた個人的なパイプを使うことになった。13日には、当時、菅直人政権で防災担当内閣府副大臣だった東祥三氏に、共通の友人である米津等史元衆議議員を通じ、連絡を取り、調整を依頼した。

私たち海兵隊先遣隊は、14日午後に陸上自衛隊仙台駐屯地に設けられた前方司令部に入った。仙台空港の関係者と協議に入ったのは15日の朝だった。

仙台空港は、海岸近くに位置していたことから、津波の直撃を受け、滑走路はじめ敷地内は瓦礫に覆い尽くされ、空港ビルも内部は破損、約800台の自動車が滑走路やその周辺で破壊されたまま放置され、被災者のご遺体の収容も終わっていなかった。

何より空港事務所の責任者と会ったときのことが忘れられない。このとき私は日本に来て21年経っていたが、これまでに彼ほど絶望し打ちひしがれた日本人の顔を見たことがなかった。それでも、空港の復旧から、本格的な救援活動の開始という意図を伝えてその日は基地に戻った。

続く

以下ソース
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/81050

★関連板★
■えっちな話題なら”ピンクニュース”
http://mercury.bbspink.com/hnews/
■新作AV情報なら”AV情報+”
http://mercury.bbspink.com/avplus/